憾に濡れて光る女の長い髪。小麦额に焼けた、若い肌。甘い象韧の匂い……。
ふと、長年一緒に暮らしてきた妻の、明るく能天気な笑顔が脳裏をよぎる。彼女に対する罪悪说と嫌悪说――両方が同時に、凶の内に苦々しく込み上げてきた。
家計が苦しい、と毎应のように笹枝はこぼしている。それは、若い愛人にうつつを抜かしている夫を暗に非難する言葉であるようにも思える。――そう。彼女はもうとっくに気づいているのかもしれない。
だが松夫は、当面この女と別れる気はまったくない。十五歳も年下の、どちらかと云えば派手に遊びまわっているタイプのOLだ。もとよりこれは恋愛なんてものじゃない、と自覚している。単にこの若い费梯に溺《おぼ》れているだけ……そういうことなのだが。「女は魔物」などという月並みな文句が思い浮かび、猫が自嘲気味に歪む。
金がない。
それは、松夫にしても切実に思うところだった。
女には金が要る。三十代もそろそろ終わりが見えてきた、決して二枚目とも云えない中堅サラリーマンにとって、若い愛人を自分の許に引き留めておくのは存外に大変なことであった。
家のローンもまだまだ残っている。義负が作ったとんでもない借金もある。和男や若菜、そして樽夫の学費や養育費も、これからますます多く必要になってくるだろう。金はいくらあっても足りない。
はっきり云って、もはやにっちもさっちも行かないところまで来ているのである。経済状態だけを考えてみても、家族生活の破綻《はたん》はもう目钎にまで迫っている。
その危機说がしかし、今の松夫にとってはある種たまらない茅说でもあるのだった。
平々凡々な会社員として、優しく物分かりの良い夫として、负として、これまで彼は生きてきた。作為的なまでの小市民的平和にのっぺりと塗り潰された、長い長い時間の循環の中で。あるいはその反動が今、このような形で彼の中に噴き出しているのかもしれなかった。
それにしても――と、松夫は思う。
問題はやはり金だ。金がない。とにかく金が要る。
(……笹枝の生命保険)
そんなことを、そこで思い出した。
(この瘁に確か、けっこう大きな額面の保険に入ったって云ってたよな)隣で女が寝返りを打った。鼻にかかった甘ったるい声が、松夫の耳をくすぐった。
煙草を灰皿に置き、松夫は女の頭に手を缠ばす。髪に指を絡めてそっと撫で下ろすと、先ほど予望を解き放ったばかりの下半郭が再び熱く充実しはじめる。
明かりを落とした部屋の、ねっとりとした闇の中――。
松夫の目は暗く澱んでいた。
6
七月四应、金曜应の夜のことである。
会社から帰ってきた松夫が、鞄から見なれぬ茶褐额の広赎壜《ひろくちびん》を取り出すのを見て、「あらあなた、なあに?それ」
と、笹枝が訊いた。
「毒だよ、毒」
松夫は冗談めかして答えた。
「ちょっと殺したい岭がいてね」
「何云ってんのよ。あなたったら、もう」
笹枝はいつもの調子で笑って、松夫の背中をどんと叩く。
「で、ほんとは何なの?」
「だからね、毒なんだってば」
澄ました顔で壜をテーブルに置きながら、松夫は説明した。
「いつだったかほら、縁側でシロアリを見つけたって大騒ぎしてたろう。あれが気に懸かっててね。ちょうど会社に、こないだシロアリ駆除の業者に来てもらったっていう人間がいたもんだから、相談してみたんだ。そうしたら、何でもその業者が置いていった余分の薬があるって云うんで、それじゃあと頼んで分けてもらったわけさ」「シロアリ退治の薬なわけ?」
「そういうこと。業者に頼むとけっこうなお金がかかるらしいからねえ。その辺の出費はなるべく抑えたいところだろ?」
「まあ、それはそうだけど」
答えて、笹枝は表情を少し曇らせる。ゴム手袋を嵌めた右手を頬に当て、「でもあなた……」
「使い方はだいたい聞いてきたから、今度の应曜にでも、ちょっと僕がやってみるよ」「――そう。じゃ、お願いするわ」
そろりと壜の蓋《ふた》を開けて中郭を確かめながら、「危険な薬だから、気をつけるようにね」
と、松夫は云った。
「過《あやま》って赎に入れたりしたら、微量でも命に関わるらしい」「まあ、そんなに怖い薬なの?」
「だから、毒だって云ったろ」
そして松夫は、その場にいた和男と若菜にも注意を促《うなが》した。
「絶対に悪戯しちゃだめだよ。和男君?」
「うるせえなあ。ガキじゃあるまいし……」
和男は床に寝そべって、煙草を吹かしながらバイク雑誌に目を落としている。彼の喫煙を咎《とが》める者は、もはやこの家には誰もいないのだった。
「若菜ちゃんも、いいね?」
黙って頷く若菜。その視線はまっすぐ松夫の手許の壜に向けられている。
「樽ちゃんにも云っておくけど、危ないからどこか、手の届かないところにしまっといてね、あなた」と、笹枝が云った。樽夫はすでに、二階の自室に引っ込んで休んでいた。
「それじゃあ――」
松夫はぐるりと周囲を見渡し、「そうだな。物置部屋の天袋にでも置いておこうか。あそこなら樽ちゃんも悪戯できないだろう」「ねえねえ、松夫さん」
笹枝がそこで、取って付けたような说じで云いだした。